賀来琢磨、良江が親子2代「継続 努力 くじけない」のモットーの元に主宰し、85年。大正時代から昭和の初めは芸術自由教育が叫ばれました。
その中の一つが児童舞踊教育でした。1926年賀来琢磨は舞踊研究所を創設しました。童謡舞踊(児童舞踊の原点)・詩(言葉)・音楽(リズム)・身体の動き(舞踊)を一つに、三位一体を主張した教育でした。
タンダバハは名称変化とともに発展
タンダバハ舞踊研究所(1926年~1947年 小石川時代)は児童文化研究の男子学生が集まり、支部を遠くは大阪、鎌倉、鶴見、中野に開いて活動。
初めての発表会はオペレッタ桃太郎。賀来琢磨は放送のリズム遊びの担当や童謡レコードの振付をして、児童舞踊の普及につとめました。
タンダバハ創作舞踊教室(1948年~1972年 中野スタジオ)
戦後、中野の感応幼稚園で舞踊教室を再開、1942年に現在のスタジオを建築。
支部を久里浜、金町、世田谷、鷺ノ宮、長野、調布、府中、練馬、ひばりが丘、等に開設。弟子を指導者として派遣。1948年戦後初めて発表会を開催。
1954年手塚治原作の「リボンの騎士」を舞踊劇として発表、以後毎年、タンダバハの発表会で舞踊劇を創作することになりました。1960年良江作品「あやとりわらべ」、1967年「お手玉あそび」が文化大臣賞受賞。
琢磨は(1932年~1975年)キングレコード専属舞踊家として、保育実用教材集7巻ほか多くの教育補助教材を作りました。
タンダバハダンスカンパニィ(1973年~)
1972年海外公演を始めたことから、名称を英語読みすることになりました。
1975年創設者琢磨死去、琢磨の弟子がもつ支部は独立しました。
良江はタンダバハダンスカンパニィ主宰と同時に保育学校で保育者指導をし、活動範囲を児童舞踊から大人のモダンダンスへと広げました。